高島・宝当神社の歴史

野崎 俊勝 編集
                                       平成17年10月10日

絵:野崎俊勝

【始めに】

まずは、俊勝先生のご紹介です。昭和4年4月23日に高島で生まれる。昭和24年から平成2年まで、唐津で小学校の先生を勤める。実直な性格で、多くの教え子や島民からの信頼も厚い。高島や宝当神社の事に関しては、生き字引とも言われる。俊勝先生が、高島へお越しいただいた方に、冊子にして配られていたものを、当ホームページに投稿いただきました。高島にご関心いただいた方に、少しでも、おに立てば、幸いです。   

【目次】

1  高島の成り立ち
2  マテバシィ
3  山王宮  (塩屋神社)
4  綱吉神社(寶当神社)
5  隠岐守野崎綱吉 1
6  隠岐守野崎網吉 2
7  藤原姓から野崎姓へ
8  野崎の氏号と地名
9  藤原の人物の紹介
10  高島塩(唐津塩)
11  高島のお寺・慈眼庵

1.【高島の成り立ち】
◎ 古第三紀末におこった地殻変動のために、形成された玄海灘 の唐津湾である.
白山火山脈系の溶岩が噴出して、鏡山・高島・大島・神集島に 見られる玄武岩の分布がある.
 なお現在の離島は、東松浦半島の、沈降によって形成されたもの である.

◎ 高島は、周囲3.5km 山項は169,7m 山麓から海岸までの間の 約450mは、砂質層である.  北、東側は、海触、風化によって断崖絶壁をなしている.
 また、山の中腹まで石垣を築き見事な段々畑で、畑作が行なわれ ていたが、現在は、ダンチクが生い茂り荒れ地となっている.  南東海岸は、暴風、防潮林として黒松の松原であったが、終戦後、松喰い虫の被害で、枯れ果てている。 (営林省管轄)
※ 高島の玄ぶ岩は、斑昌の明らかな点が特色で、黒色玄武郎といわれ、その岩の窪みに(カンランセキ)を見ることかできる.

◎ 大きい岩盤としては、深成岩である花崗岩か広がっていて、 その上に玄武岩がのっかって、島の形態を形成している.
※ 干潮のときに、赤瀬付近の岩場で岩盤の一部を見ることができる.  

山の南面の斜面で見られる赤土は、玄武岩が風化し出来たものである.                              
◎ 黒瀬付近では、溶岩の一部を見ることが出来る.


(唐津市史より)抜粋

2.【マバシテイ】
◎ 山頂まで植えられている「マテバシイ」は、先人たちによって植林され先祖代々大切に守り、育てられ今日に至っているものです.
 燃料の変革によって、薪木からプロパンガスヘと移り変わり、炊事場からかまど(くど)の姿か消え、それに代ってガスコンロが登場し、炊事場も大変便利になりました.

◎ 現在では「薪」として、切り出す必要性もほとんどなく、大木に育ち老木化しているものも、目立ちますが、先人たちの智恵の偉大さを忘れることなく、子どもらに、語り継かねばならないと思います.

◎ 「マテバシイ」は、伐採すれば切り口の周りから、数本の新しい芽が出て成長し、大木に育っていく性質を持っているのです.

◎ この性質を上手く利用し、計画的に切り出していけば、孫子の代になっても、薪には困らないだろうと考え、塩害、暴風にも強い「マテバシイ」を選んで植林されたものでしょう.
※ これだけではありません。「マテバシイ」は山に降った雨を地下に蓄え、島民の生活にか欠かせない、飲料水(井戸水)として生活を支えてきました.
※ 街や都市では、やれ干ばつだ「水が出ない」と騒いでいても、高島では、心配をしないでも安心して、井戸水を使って生活をしていくことができたのです.

◎ 私達の祖先は、何と素晴らしい智恵者であり発想者ではありませんか.このような、働きをしてきた「マテバシイ」を、絶やすことなく活かす発想を見出し、先人に劣らない取り組みを実践すべきです。
※一人一人のアイディアを活かした、計画を是非成功させたいものです.

3.【山王宮(塩屋神社)】天正9年(1581

◎ 祀 神
 大山祇神(おおやまつみのかみ
 須佐能男尊(すさのおのみこと
 藤原鎌足(ふじはらかまたり)
 菅原道真(すがはらみちざね)
四神を合祀する

○大山祇神は、愛媛県伊予三島にある「三島大明神」と同じ祠神で大山祇神社は、源氏・平氏・北条氏・足利氏の守護神として、かっては、国幣大社であった.
 また、静岡県三島市の「三島神社」とも同じ祠神である.

○ この神社には、源頼朝が伊豆で成長したとき、いつも参ったといわれている神社です.
いづれも、本来は「山の神」「野の神」として祀り、戦国時代には「水軍の神」「海の神」ともなっています。

※ 大山祇神は、娘の木花開媛(このはなさくやひめ)を天照大神の孫のニニギノ尊に奉った.
二人の間に彦火火出見尊(ひこほはでみのみこと)が産まれました。
 父神は大いに喜び米酒を造り、天地の神々に供えられました。
この事があってから、大山祇神を「酒造神」の祖神として祀られ現在の京都市の「梅宮神社」の祀神です.

※ このように大山祇神は、山・野・海・酒あるいは、守護神・産業の神・産土神として、各地に勧請され祀られるようになりました。
 このような伝説を味わうことによって、山王宮(塩屋神社)の存在を理解し心新たにして、誇りを持ち祭祀するよう心がけたい.

※「塩屋神社」の鳥居は、昭和十二年十二月に建立されています.
 大正十二年まで当地で製塩業が行なわれていたことを、後世まで
 語り継ぐ為の記念として建立されたものです.
(唐津新聞より抜粋)

4.【寶當神社(綱吉神社)】
◎ 祀神  隠岐守野崎綱吉を祀る.
 どうして、高島に由緒ある神や神社があるのだろう.

○ 高島は、役450年以前は十数軒の住民がほそぼそと、半農・半漁で生計を立て、生活していたが、あるとき筑前吉井(糸島郡福吉付近)の海賊が、大勢押し寄せ、強盗・殺人。つけ火など、我が思いのままに荒し回った。それが一回だけでなく、何回となく続き島民は恐れおののいていた.

○ 元亀四年三月二日(1573)龍造寺隆信は大軍を率いて、鬼ヶ城(城主草野鎮永)を取り囲んだ.
隠岐守野崎綱吉・原瀬久太郎久国は矢おもてに立って奮戦し、龍造寺は勢力を失い囲いを解いて敗走した。

草野家の老臣の中には、綱吉の勇カを妬み主家に告げ口をする者がいた.

◎綱吉はこれを知り、三人の武家を連れて夜陰に紛れ、九月二十一日小船を操り高島に逃れた.
 綱吉は、通称吉井強盗がたまたま押し寄せたとき、これを打ち破り住民を安堵させ、信頼を得て住みついた。
 綱吉は、島民とはかり綱吉の先祖である藤原鎌足・不比等房前・産土神として「大山祇神」を祀る「山王宮」を建立した。

島民は、三十二歳で逝去した、綱吉公の徳と功績を偲んで綱吉神社を建て祀り事を怠らなかった.
※両神社とも「高島塩」との関係が深く、それを証拠づけているのが両神社のみかげ石で建立されている鳥居の存在である。

※ 当時「塩」は島民にとっては「寶物」であり「島の繁栄」を約束する物であった.
○ 島民は、塩の売上から寄付金を募り、現在の鳥居を建立した塩は高島の寶である「寶當」(當地の寶)「寶當神社」と命名した。
 鳥居の左足には、明治三十四年八月吉日建立と記してある。


5.【隠岐守野崎綱吉 2-1 】

◎ 天文二十三年(1568年)信州の諏訪の国で産まれる.十ニ歳 産まれつき才能があり、憐れみの心も厚く道理をわきまえ、礼儀も正しく勇気と力持ちで、当時の人は偉丈夫(優れた人物)であると呼ばっていた.

◎ 肥後の豊後の大友義鎮公につかえ、数度の軍功著しく恩賞を戴いた.
 その当時、肥前国岸獄城主三河守、岩尾城越前守及び龍造寺等は隙あらば、互いに相対しようとしていた.

◎ 肥前の国 草野氏はこれを聞き援助することを辞した.草野氏は菊池氏のわかれで、、則為縁ありて援護にやってきた.

◎ 元亀四年三月二日(1573)龍造寺隆信は五千四百騎を引きつれ、草野城を取り囲んだ.
原瀬久太郎久国、野崎隠岐守綱吉は、矢面に立って奮戦、これによって龍造寺は勢力を失い、遂に囲いを解いて敗走した。

○ 草野城はこれで安堵をしたが、草野家の老臣の中には、綱吉の勇カを恐れ妬み、主家に告げ口をする者もいた.
綱吉はこれを知り、三人の武家を引き連れ夜陰に紛れ、九月二十一日小船を操りだし高島に逃れた.
※ その年 十二月二十九日、龍造寺は再度大村の国草野に至り連勝の末草野城を陥城し。
   (平原の合戦)
◎ その後、筑前の国吉井の海賊、火山神九郎は数多くの手下をもち、島々或は航行中の船舶を襲い、強奪を働いていた.
 世人はその猛悪異名に恐れおののいていた.

6.【隠岐守 野崎綱吉 2-2】
◎吉井荊娯は、神九郎の手下三十余人を率いて高島の人家を襲い米や銭を収奪し、船に積み込み、まさにとも網を解いて浜辺をさろうとした。

◎綱吉はこれを聞いて海辺へ走り出て、飛鳥のごとく賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き、横一文字に振りまくり、賊徒を投げ飛ばし、骨折、流血、転倒、負傷して死ぬ.
残った者は僅五人であった.
五人は、強奪した物を網吉の前に出し命ごいをした。
綱吉は懇ろに諭して許した.

◎ その後、遠近の賊船は網吉の勇力を聞き高島を襲うことはなかった.

◎天正十三年七月(1585)豊臣秀吉公は、その威望を聞くに及んで従一位を贈り、家臣として召し抱えようと使いの者を遣わきれた.
 網吉もその願いに沿いたいと思われたが、にわかに病に犯され遂に再起することができず、天正十三年八月二十三日高島の地にて三十二歳の若さで逝去された.

◎島民は葬を厚くし、祠を建て綱吉神社と称し、年々祭りを催し怠らなかった.
※綱吉公の嫡男 吉道(始称主馬之助)天正十二年高島において誕生
※唐津城主 寺沢公しばしば 野崎邸に訪れる.

           (妙見神社宮司 本城信松氏による)

7.【藤原から野崎姓へ)】
中臣鎌足‥‥‥藤原鎌足へ

◎ 大化1年く645)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力し、蘇我蝦夷(そかのえみし)蘇我入鹿(そがのいるか)父子を滅ぼし大化の改新を断行、その功績により645年紫冠を授けられる。
 臨終に際して、天智天皇の邸を見舞い、内大臣最高の大職冠の位を受け藤原の姓を賜わった.

◎ 藤原武蔵守唯重は、平安親の率いる山賊徒党が朝廷にそむき、その暴虐ぶりに、信州の民は、日夜苦しめられていた.
 唯重は朝廷より、追討の命を受け信州へ向かった.やがて、謀主数人を捕らえ宮廷に引き出した.大臣計松殿より軍略著しく、その功績を称えて信州の惣目代と信州は、八重雲の彼方にて、広き野を越えていかねばならない.

 これを帰国の家宝にと、扇子を持ち出しそれに一首の連歌を書いて下し賜う.
「野を越えて 二度と匂うへよ 武の双葉」
※ 唯重は有難く頂戴し、その場で藤原を野崎の姓と改める.
 これから野崎姓が各地に広まっていったものである.
(野崎家系図より)抜粋

8.【野崎の氏号と地名考】
◎ 地名辞書なとを探り、この地名を求むるに下記が知られたり.
☆ 河内国 讃良郡の野崎邑は、(野崎観音の所在地) 歌詞にもよまれる.
   ☆ 武蔵国 北多摩郡 野崎村
   ☆ 下野国 那須郡 野崎村
   ☆ 紀伊国 名草郡 野崎村
   ☆ 肥前国 松浦郡に野崎島あり  ※現在の高島である
   ☆ 大隅国 肝付郡 野崎村

◎ 一つの村落内に、地点的に野の先 野の前と呼ばれし処もある.これを文書に記す時は、野崎と書き氏号にもその文字のままが用いられたるがごとくなり.
  (野川 野坂 野沢 野辺 野副)等の氏号かある.

◎ 氏号、苗字の分布集計によれば、野崎氏は中部と関東地方に多くの人数ありという.
※ 本文に記するかごとく、野崎氏はここにとどまらず関西、中部地方と九州の各地にも数多くが発祥せり.

◎ これを号する氏族の系脈は、源氏系のながれ、藤原系の支流の他にも諸系あり.
 (野崎の氏号と地名考より)抜粋

9.【人物の紹介】
◎藤原鎌足(614-669)一中臣鎌足(なかとみのかまたり)

○藤原氏の始祖 (天智天皇)
○645年(大化1年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力し、蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の父子を滅ぽし大化の改新を断行し、天皇中心の古代の中央集権的国家をつくった。
○654年紫冠を授けられ、臨終に際して、天智天皇その邸を見舞い内大臣最高の大職冠の位を受け、藤原姓を賜わった。

◎藤原不比等(859-720)
○鎌足の第二子
○701年(大宝1年)大宝律令を選修
○718年(養老2年)養老律令を編集
○平城京(奈良)遷都に功があった.
○四子(武智麻呂、房朝、宇合、麻呂〉栄進をはかり、四子がそれぞれ 南家、北家、武家、京家を起こした。

◎藤原房前 (681-737)
○不比等の長子 北家の祖
○文武天皇のとき、東海道巡察使となる.
○聖武天皇の即位にあたり、正三位、民武郷、中衛大将、東海道山道節度使となる.

◎藤原魚名(721-783)
○房朝の第五子
○766年 参議、ついで内大臣から佐大臣に進む.
○782年 氷上川継謀反事件に連座して、太宰府に左遷され、赴任の途中病に倒れ帰京を許される.
      (万有百科事典より)抜粋

10.【高 島 塩】 唐津藩へ
◎ 高島西端に、海水による天日製塩業がおこなわれていたが、明治三十年代に蒸気力を応用して生産が増加した.

○ 蒸気力で海水を汲み上げて、釜に送りポーメ三度位にしてこれを沸騰させ、九度ぐらいの濃度とし、溜め釜に抽出してこれを鉄管によって、各管に分送して製造した。
 釜は二十余個で、一昼夜の製造で三十余石、後五十石位に増産している.石炭の消費一万二千斤位であった.
明治36年 (5120石位)7987円
〃 37年 (6267石位) 8586円
〃 38年 〈5655石位)8082円

○ 寶嘗神社の鳥居の建立は、明治三十四年八月吉日である.
※ このころ、栄一俵(60kg)の値段は、三円七十銭、四円である.

◎ このことから考えると、塩の生産で島民の生活が活気に満ちあふれていたものと思われる。
 その明かしとして、みかげ石の偉大な鳥居の建立が物語っている.
※ 当時の島民にとっては、塩は「宝物」に思えたに違いない.
 鳥居の額名「寶當」は「島の繁栄」を願って、島民が智恵をしぽって命名したに違いない.(當地の寶は塩である)
※ 故老から聞かきれた話では、以前は高島の東の浜に塩田があったが、主力は西端に移り、現在は、製塩場の地名のみが残っている.
※ 鏡地区の旧塩屋村が製塩の発祥地である.

◎ 塩屋神社(山王宮)の鳥居は、昭和十二年に建立されている.
「塩屋」の額名も、製塩と関係が深いものである.
               (唐津市史より)抜粋

11.【高島のお寺・慈眼庵】
◎ 河内国 讃良郡の野崎邑は、慈眼寺の野崎観音の所在地としても、有名なり。
 ※ 現在は、大阪府大東市内に所属している.

◎ 野崎観音は、曹洞宗慈眼寺の十一面観音の通称である.

◎ 高島に建てられているお寺の称号は、慈眼庵(じがんあん)である.
 ※ 古老から幼少の頃、よく聞かされた話では、当時寺守が住んでおられたが離島の際に十一面観音像を持ち去ったとのことである。もしも、これか事実とすれば、高島のお寺と野崎観音との、結び付きが探くなってくる.
 ※ 当時は、各地で「お伊勢講がもられ、体の丈夫な人に旅費、宿賃を与え「お伊勢参り」を依頼していた事実を民俗史から知ることができる.

◎ 高島でも「お伊勢講」がもられて「お伊勢参り」をされた事例がある.
※ お寺の称号、慈眼庵十一面観音像、これらが「野崎観音」との結び付きを深めている.
○ 推測するには「お伊勢参り」を依頼された者が、そのお礼がえしとして、河内の「野崎観音様」にもお参りし、十一面音像を受けてこられ、お寺の建設と同時に祀られたものと考察される.

◎ われわれの祖先の、信仰心の厚さに頭がさがる思いがする。