『高島・宝当神社の歴史』 2-2                     野崎 俊勝 編集
                                       平成17年10月10日

    【目次】
1  高島の成り立ち
2  マテバシィ
3  山王宮  (塩屋神社)
4  綱吉神社(寶当神社)
5  隠岐守野崎綱吉 2-1
6  隠岐守野崎網吉 2-2
7  藤原姓から野崎姓へ
8  野崎の氏号と地名
9  藤原の人物の紹介
10  高島塩(唐津塩)

11 高島のお寺・慈眼庵

5.【隠岐守野崎綱吉 2-1 】
  
◎ 天文二十三年(1568年)信州の諏訪の国で産まれる.十ニ歳 産まれつき才能があり、憐れみの心も厚く道理をわきまえ、礼儀も正しく勇気と力持ちで、当時の人は偉丈夫(優れた人物)であると呼ばっていた.

◎ 肥後の豊後の大友義鎮公につかえ、数度の軍功著しく恩賞を戴いた.
 その当時、肥前国岸獄城主三河守、岩尾城越前守及び龍造寺等は隙あらば、互いに相対しようとしていた.

◎ 肥前の国 草野氏はこれを聞き援助することを辞した.草野氏は菊池氏のわかれで、、則為縁ありて援護にやってきた.

◎ 元亀四年三月二日(1573)龍造寺隆信は五千四百騎を引きつれ、草野城を取り囲んだ.
原瀬久太郎久国、野崎隠岐守綱吉は、矢面に立って奮戦、これによって龍造寺は勢力を失い、遂に囲いを解いて敗走した。

○ 草野城はこれで安堵をしたが、草野家の老臣の中には、綱吉の勇カを恐れ妬み、主家に告げ口をする者もいた.
綱吉はこれを知り、三人の武家を引き連れ夜陰に紛れ、九月二十一日小船を操りだし高島に逃れた.
※ その年 十二月二十九日、龍造寺は再度大村の国草野に至り連勝の末草野城を陥城し。
   (平原の合戦)
◎ その後、筑前の国吉井の海賊、火山神九郎は数多くの手下をもち、島々或は航行中の船舶を襲い、強奪を働いていた.
 世人はその猛悪異名に恐れおののいていた.


6.【隠岐守 野崎綱吉 2-2】
◎吉井荊娯は、神九郎の手下三十余人を率いて高島の人家を襲い米や銭を収奪し、船に積み込み、まさにとも網を解いて浜辺をさろうとした。

◎綱吉はこれを聞いて海辺へ走り出て、飛鳥のごとく賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き、横一文字に振りまくり、賊徒を投げ飛ばし、骨折、流血、転倒、負傷して死ぬ.
残った者は僅五人であった.
五人は、強奪した物を網吉の前に出し命ごいをした。
綱吉は懇ろに諭して許した.

◎ その後、遠近の賊船は網吉の勇力を聞き高島を襲うことはなかった.

◎天正十三年七月(1585)豊臣秀吉公は、その威望を聞くに及んで従一位を贈り、家臣として召し抱えようと使いの者を遣わきれた.
 網吉もその願いに沿いたいと思われたが、にわかに病に犯され遂に再起することができず、天正十三年八月二十三日高島の地にて三十二歳の若さで逝去された.

◎島民は葬を厚くし、祠を建て綱吉神社と称し、年々祭りを催し怠らなかった.
※綱吉公の嫡男 吉道(始称主馬之助)天正十二年高島において誕生
※唐津城主 寺沢公しばしば 野崎邸に訪れる.

           (妙見神社宮司 本城信松氏による)


7.【藤原から野崎姓へ)】
中臣鎌足‥‥‥藤原鎌足へ

◎ 大化1年く645)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力し、蘇我蝦夷(そかのえみし)蘇我入鹿(そがのいるか)父子を滅ぼし大化の改新を断行、その功績により645年紫冠を授けられる。
 臨終に際して、天智天皇の邸を見舞い、内大臣最高の大職冠の位を受け藤原の姓を賜わった.

◎ 藤原武蔵守唯重は、平安親の率いる山賊徒党が朝廷にそむき、その暴虐ぶりに、信州の民は、日夜苦しめられていた.
 唯重は朝廷より、追討の命を受け信州へ向かった.やがて、謀主数人を捕らえ宮廷に引き出した.大臣計松殿より軍略著しく、その功績を称えて信州の惣目代
 と信州は、八重雲の彼方にて、広き野を越えていかねばならな
 い.

 これを帰国の家宝にと、扇子を持ち出しそれに一首の連歌を書いて下し賜う.

  「野を越えて 二度と匂うへよ 武の双葉」

※ 唯重は有難く頂戴し、その場で藤原を野崎の姓と改める.
 これから野崎姓が各地に広まっていったものである.
       (野崎家系図より)抜粋

8.【野崎の氏号と地名考】
◎ 地名辞書なとを探り、この地名を求むるに下記が知られたり.
☆ 河内国 讃良郡の野崎邑は、(野崎観音の所在地) 歌詞にもよまれる.
   ☆ 武蔵国 北多摩郡 野崎村
   ☆ 下野国 那須郡 野崎村
   ☆ 紀伊国 名草郡 野崎村
   ☆ 肥前国 松浦郡に野崎島あり  ※現在の高島である
   ☆ 大隅国 肝付郡 野崎村

◎ 一つの村落内に、地点的に野の先 野の前と呼ばれし処もある.これを文書に記す時は、野崎と書き氏号にもその文字のままが用いられたるがごとくなり.
  (野川 野坂 野沢 野辺 野副)等の氏号かある.

◎ 氏号、苗字の分布集計によれば、野崎氏は中部と関東地方に多くの人数ありという.
※ 本文に記するかごとく、野崎氏はここにとどまらず関西、中部地方と九州の各地にも数多くが発祥せり.

◎ これを号する氏族の系脈は、源氏系のながれ、藤原系の支流の他にも諸系あり.
            (野崎の氏号と地名考より)抜粋


9.【人物の紹介】
◎藤原鎌足(614−669)一中臣鎌足(なかとみのかまたり)

○藤原氏の始祖 (天智天皇)
○645年(大化1年)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力し、蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の父子を滅ぽし大化の改新を断行し、天皇中心の古代の中央集権的国家をつくった。
○654年紫冠を授けられ、臨終に際して、天智天皇その邸を見舞い内大臣最高の大職冠の位を受け、藤原姓を賜わった。

◎藤原不比等(859-720)
○鎌足の第二子
○701年(大宝1年)大宝律令を選修
○718年(養老2年)養老律令を編集
○平城京(奈良)遷都に功があった.
○四子(武智麻呂、房朝、宇合、麻呂〉栄進をはかり、四子がそれぞれ 南家、北家、武家、京家を起こした。

◎藤原房前 (681-737)
○不比等の長子 北家の祖
○文武天皇のとき、東海道巡察使となる.
○聖武天皇の即位にあたり、正三位、民武郷、中衛大将、東海道山道節度使となる.

◎藤原魚名(721-783)
○房朝の第五子
○766年 参議、ついで内大臣から佐大臣に進む.
○782年 氷上川継謀反事件に連座して、太宰府に左遷され、赴任の途中病に倒れ帰京を許される.
      (万有百科事典より)抜粋


10.【高 島 塩】 唐津藩へ
◎ 高島西端に、海水による天日製塩業がおこなわれていたが、明治三十年代に蒸気力を応用して生産が増加した.

○ 蒸気力で海水を汲み上げて、釜に送りポーメ三度位にしてこれを沸騰させ、九度ぐらいの濃度とし、溜め釜に抽出してこれを鉄管によって、各管に分送して製造した。
 釜は二十余個で、一昼夜の製造で三十余石、後五十石位に増産している.石炭の消費一万二千斤位であった.
明治36年 (5120石位)7987円
〃 37年 (6267石位) 8586円
〃 38年 〈5655石位)8082円

○ 寶嘗神社の鳥居の建立は、明治三十四年八月吉日である.
※ このころ、栄一俵(60kg)の値段は、三円七十銭、四円である.

◎ このことから考えると、塩の生産で島民の生活が活気に満ちあふれていたものと思われる。
 その明かしとして、みかげ石の偉大な鳥居の建立が物語っている.
※ 当時の島民にとっては、塩は「宝物」に思えたに違いない.
 鳥居の額名「寶當」は「島の繁栄」を願って、島民が智恵をしぽって命名したに違いない.(當地の寶は塩である)
※ 故老から聞かきれた話では、以前は高島の東の浜に塩田があったが、主力は西端に移り、現在は、製塩場の地名のみが残っている.
※ 鏡地区の旧塩屋村が製塩の発祥地である.

◎ 塩屋神社(山王宮)の鳥居は、昭和十二年に建立されている.
「塩屋」の額名も、製塩と関係が深いものである.
               (唐津市史より)抜粋


11.【高島のお寺・慈眼庵】
◎ 河内国 讃良郡の野崎邑は、慈眼寺の野崎観音の所在地としても、有名なり。
 ※ 現在は、大阪府大東市内に所属している.

◎ 野崎観音は、曹洞宗慈眼寺の十一面観音の通称である.

◎ 高島に建てられているお寺の称号は、慈眼庵(じがんあん)である.
 ※ 古老から幼少の頃、よく聞かされた話では、当時寺守が住んでおられたが離島の際に十一面観音像を持ち去ったとのことである。もしも、これか事実とすれば、高島のお寺と野崎観音との、結び付きが探くなってくる.
 ※ 当時は、各地で「お伊勢講がもられ、体の丈夫な人に旅費、宿賃を与え「お伊勢参り」を依頼していた事実を民俗史から知ることができる.

◎ 高島でも「お伊勢講」がもられて「お伊勢参り」をされた事例がある.
※ お寺の称号、慈眼庵十一面観音像、これらが「野崎観音」との結び付きを深めている.
○ 推測するには「お伊勢参り」を依頼された者が、そのお礼がえしとして、河内の「野崎観音様」にもお参りし、十一面音像を受けてこられ、お寺の建設と同時に祀られたものと考察される.

◎ われわれの祖先の、信仰心の厚さに頭がさがる思いがする。


 前のページにもどる
  
Copyright (c) 2006 takarajima,inc. All rights reserved.